ちょいと車を走らせて松代にある〈八幡原史跡公園〉に行ってきました。
〈川中島〉といったほうがわかりやすいですね。
戦国時代の善光寺平(現長野市)は交通の要衝で、また穀倉地帯、経済地帯としても価値も高かったため、越後の上杉と甲斐の武田の間で熾烈な占有合戦が繰り広げられました。
双方合わせて2万人(以上)に及ぶ兵力が展開できる場所は善光寺の南、犀川と千曲川の合流する川中島の平坦地しかありません。
川中島の戦い(研究者によっては様々ですが、2~5回あったといわれています)といっても、多く語られるのは最も激しかった1561年(永禄4年)の戦いです。

写真の構図は日本人ならばどこかで見たことがあるはず。
「愛馬〈放生月毛〉に跨った上杉謙信(まだ政虎ですけどこっちのほうが慣れ親しんでいるので)が疾風のような勢いで武田の本陣に迫ってゆく。そして名刀〈小豆長光〉でもって、床机にデンと座っていた武田信玄に斬りかかった。閃光煌くこと三度、いや七度、信玄は刀を抜く閑もなく、軍配で身を防いだんだけど、肩にいくらか手傷を負った。さらに謙信は追い討ちをかけようとする。絶対絶命のそのとき、家来の槍が助けに入らなければ信玄はここで死んでいたかもしれん」
とガイドのおっちゃんたち(2、3人いました)がまるで見てきたように臨場感たっぷりに聞かせてくれるんです。
実はこのおっちゃんたちは専門のガイドではなく、この八幡原公園にある売店のご店主たちなんです。話の最後に「わたし、向こうでネクタリンやらを売っているんで、帰りにお立ち寄りください」とちょっと照れ笑いを浮かべながら、宣伝を忘れませんでした。
う~ん、思わず、なんか買ってゆこう!って気になっちゃいますよね。
ちなみに売店には地物の果物の他に、武田信玄の”風林火山”、それに上杉謙信の”毘”や”龍”、そして現在NHKで放映中の『天地人』関連のグッズも並んでいました。

上杉謙信が陣を構えた妻女山、のはずです。八幡原から2キロくらい南にあります。
絵図カンバンに示されてある方向に向けてシャッターを押しましたが、山並みがいくつも重なっているのではっきりとはわかりません…。
上杉軍13000は川中島南部の妻女山(411m)に陣を張り、武田軍20000はその北東にある海津城を中心に展開します。そして睨みあうこと十数日、痺れを切らしたのか、武田信玄は、軍師(といわれる)山本勘助が立案した”啄木鳥戦法”を用いることを決断します。
これは高坂弾正率いる別働隊12000を密かに妻女山の裏から回りこませ、あわてた上杉軍を、八幡原に陣を移した本隊8000と挟み撃ちにするという作戦です。
ところが、この作戦は上杉方に見破られてしまいます。
「海津城の炊飯の煙がいつもよりたくさんだったので軍が動くことを見透かされた」などと昔の読み本に書かれていますが、いくらなんでも信玄がそんなミスをするはずもなく、たぶん上杉軍は川中島一帯(善光寺平)にそれなりの諜報網を整備してあったのでしょう(この辺りの国人は上杉寄りだったのかもしれません)。
夜陰に紛れて妻女山を下りた上杉軍は突如として武田の本陣へ襲い掛かります。
奇襲の上、12000対8000ですから武田軍本隊もたまったものじゃありません。
乱戦となって、武田信繁(信玄の弟)や山本勘助などが討ち死にするという惨憺たる有様です。
このときガイドのおっちゃんが語るところの〈謙信と信玄の一騎打ち〉があったというわけです。
昼頃になると妻女山へ向かっていた高坂弾正の別働隊が急いで戻ってきたため、今度は上杉方がピンチになって、謙信は兵を引く決断をします。
上杉方3000、武田方4000という死者を出したといわれるこの戦いは結局、痛み分けに終わります(武田方は領土を守ったものの有力将官が何人も討ち取られているため、どっちが勝ったのかよくわからない戦いです。上杉方の有力将官はほとんど無事です)。
このとき武田信玄が本陣を構えたといわれる場所に現在の八幡神社が建っています。
戦死した将兵を慰霊するためでしょう。
そこには〈三太刀七太刀跡〉というのもあって、信玄公もえらい斬りつけられたことになっています。
それだけされて肩に浅手を負っただけ、という信玄公の強運になぞらえて八幡神社では〈強運守り〉というお守りも売っていて、これがまた真っ赤な炎が燃え立つようなデザインで、まさに”強運”って感じなんですよね。
川中島古戦場では上記のように武運つたなく幾千もの命が露と消えました。本来は忌避される場所かもしれません。ですが、現在ではそのような生々しさはすでになく、どこか絵巻物のなかの風景のようにすら感じられます。
八幡原史跡公園と名を変えたこの一帯は芝生が丁寧に管理され、博物館やプラネタリウムのある市民憩いの場となっていますから、そのせいでしょうね。
この日も生き生きとした夏草が陽光に煌いて、子供たちの笑い声があちらこちらから聞こえていました。