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初めての戸隠神社

鏡池からの戸隠山
里では今がまさに秋真っ只中ですが、ここ戸隠ではすでに晩秋の風情でした。
空気も冷たく、肌に痛いほどです。
けれども、そんな空気が景色を凍らせたようになって、鏡池に映し出された戸隠山の美しいこと。
あいにく雲がかかって山頂を拝むことはできませんでしたけど、秘すれば花、秘せずは花なるべからず、といいますしね。

それにしても絶好の行楽日和。
私と相方は昨日はぐっすり休んで体調も万全。
お蕎麦で腹ごしらえをしていざ奥社へ!
戸隠杉並木
樹齢400年を超えるという杉並木に圧倒されつつ、ゆるゆると坂道を歩み、続いて急な石段を登って、トータル30分、ついに奥社の鳥居が見えてきました(戸隠山の中腹くらいにあります)。
相方が途中でハフハフいい出したので背中を押してやった私は倍疲れちゃいましたけど、どうにか無事についてよかったです。お年寄りや運動不足の方にはちょっとキツイですね。
ヒールのついたパンプスにスカートという出で立ちで、すいすい登っている若い女性もいましたが…。
戸隠神社奥社
奥社の御祭神は天岩戸伝承で有名な天手力雄命ですけど、奥社の隣には地主神を祭った九頭龍社と戸隠大神を祭った社もあります。
戸隠信仰の歴史は古事記成立(712年)より古いと考えられているので、山岳信仰や水の神(山のあちこちから水が湧き出ています)信仰が先にあったのかもしれません。
(私はこの戸隠と善光寺、埴科古墳群の3つの関係においてある仮説を考えていますが、それはまたいつか。)

最近はパワースポットブームとやらで戸隠もその1つに数えられているらしく、深呼吸しながら歩いている若者の団体も目に付きました。
確かにこの戸隠山にいると、心が平らかになると同時に、体の奥底から力が漲ってくるような感じがします。
「よし、いっちょ山頂を目指そうか!」
と仰ぎ見た、山肌の険しいこと…。
戸隠山頂
一瞬であきらめました。
チャレンジするには2年くらいかけて肉体改造しなくてはなりません。

奥社まででもちょっとした登山気分で、十分に楽しめましたからヨシとします!
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八幡原史跡公園(2)佐久間象山先生

日本が史上かつてないほどの大転換を迎えた幕末という時代、その日本を揺り動かすためか、全国各地に”郷土の英雄”が生まれました。
鹿児島に西郷隆盛、長州に高杉晋作、土佐に坂本竜馬…。
そして、信州のそれが佐久間象山というお方なんです。

象山は信州松代藩の下級藩士に生まれたものの、天賦の学問の才で累進し、特に洋学に関しては日本髄一といわれる人材でした。
その豊富な西洋知識から当然のように開国派であり、政治的(松城藩は徳川の譜代扱いということもあって)には公武合体派でした。
そのため尊皇攘夷派の過激志士たちからは常につけねらわれ、1864年、ついに京都三条木屋町で凶刃に倒れるのでした。享年は54歳です。

佐久間象山は現在の知名度もそんなになく、後世の評価もあまり高くない人物(傲慢で自信過剰な性格が難だったともいわれています)ですが、象山から教えを受けた人物には、吉田松陰、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内などが挙げられ、それを見るにはやはり偉人だったということがわかります。

「旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず」

信州人なら誰でも口ずさめる県歌『信濃の国』の第5番の歌詞にも象山は登場します。
この信州の偉人たち、儒学者太宰春台以外、みんな非業の死を遂げているのがなんだか凄まじいですね…。

象山先生の事跡を記念して八幡原史跡公園に大きな象が建っていることには驚かされました。信州の人はやはり象山先生を敬愛しているんですね。
090724ぞうさん1
台の上には地球儀と分厚い本(西洋書でしょうか)がさりげなく(!)置かれ、象山先生がどんな人物だったかを物語っています。
090724ぞうざん2
ぱっちりとした瞳をまっすぐに伸ばし、新しい時代への希望に満ち溢れています。
実は象山先生はそのお写真が残っているのですが、この像とは似ても似つかわしくない悪人顔でした…。

象山先生がさわやかイケメンだった日本の歴史も少しかわっていたかも…。
信州人はその想いを込めてこの象を造ったんでしょうね。

八幡原史跡公園(1)川中島古戦場

ちょいと車を走らせて松代にある〈八幡原史跡公園〉に行ってきました。
〈川中島〉といったほうがわかりやすいですね。

戦国時代の善光寺平(現長野市)は交通の要衝で、また穀倉地帯、経済地帯としても価値も高かったため、越後の上杉と甲斐の武田の間で熾烈な占有合戦が繰り広げられました。
双方合わせて2万人(以上)に及ぶ兵力が展開できる場所は善光寺の南、犀川と千曲川の合流する川中島の平坦地しかありません。

川中島の戦い(研究者によっては様々ですが、2~5回あったといわれています)といっても、多く語られるのは最も激しかった1561年(永禄4年)の戦いです。
090723謙信信玄一騎打ち
写真の構図は日本人ならばどこかで見たことがあるはず。

「愛馬〈放生月毛〉に跨った上杉謙信(まだ政虎ですけどこっちのほうが慣れ親しんでいるので)が疾風のような勢いで武田の本陣に迫ってゆく。そして名刀〈小豆長光〉でもって、床机にデンと座っていた武田信玄に斬りかかった。閃光煌くこと三度、いや七度、信玄は刀を抜く閑もなく、軍配で身を防いだんだけど、肩にいくらか手傷を負った。さらに謙信は追い討ちをかけようとする。絶対絶命のそのとき、家来の槍が助けに入らなければ信玄はここで死んでいたかもしれん」
とガイドのおっちゃんたち(2、3人いました)がまるで見てきたように臨場感たっぷりに聞かせてくれるんです。
実はこのおっちゃんたちは専門のガイドではなく、この八幡原公園にある売店のご店主たちなんです。話の最後に「わたし、向こうでネクタリンやらを売っているんで、帰りにお立ち寄りください」とちょっと照れ笑いを浮かべながら、宣伝を忘れませんでした。
う~ん、思わず、なんか買ってゆこう!って気になっちゃいますよね。
ちなみに売店には地物の果物の他に、武田信玄の”風林火山”、それに上杉謙信の”毘”や”龍”、そして現在NHKで放映中の『天地人』関連のグッズも並んでいました。

090723妻女山
上杉謙信が陣を構えた妻女山、のはずです。八幡原から2キロくらい南にあります。
絵図カンバンに示されてある方向に向けてシャッターを押しましたが、山並みがいくつも重なっているのではっきりとはわかりません…。

上杉軍13000は川中島南部の妻女山(411m)に陣を張り、武田軍20000はその北東にある海津城を中心に展開します。そして睨みあうこと十数日、痺れを切らしたのか、武田信玄は、軍師(といわれる)山本勘助が立案した”啄木鳥戦法”を用いることを決断します。
これは高坂弾正率いる別働隊12000を密かに妻女山の裏から回りこませ、あわてた上杉軍を、八幡原に陣を移した本隊8000と挟み撃ちにするという作戦です。
ところが、この作戦は上杉方に見破られてしまいます。
「海津城の炊飯の煙がいつもよりたくさんだったので軍が動くことを見透かされた」などと昔の読み本に書かれていますが、いくらなんでも信玄がそんなミスをするはずもなく、たぶん上杉軍は川中島一帯(善光寺平)にそれなりの諜報網を整備してあったのでしょう(この辺りの国人は上杉寄りだったのかもしれません)。

夜陰に紛れて妻女山を下りた上杉軍は突如として武田の本陣へ襲い掛かります。
奇襲の上、12000対8000ですから武田軍本隊もたまったものじゃありません。
乱戦となって、武田信繁(信玄の弟)や山本勘助などが討ち死にするという惨憺たる有様です。
このときガイドのおっちゃんが語るところの〈謙信と信玄の一騎打ち〉があったというわけです。
昼頃になると妻女山へ向かっていた高坂弾正の別働隊が急いで戻ってきたため、今度は上杉方がピンチになって、謙信は兵を引く決断をします。

上杉方3000、武田方4000という死者を出したといわれるこの戦いは結局、痛み分けに終わります(武田方は領土を守ったものの有力将官が何人も討ち取られているため、どっちが勝ったのかよくわからない戦いです。上杉方の有力将官はほとんど無事です)。

このとき武田信玄が本陣を構えたといわれる場所に現在の八幡神社が建っています。
戦死した将兵を慰霊するためでしょう。
そこには〈三太刀七太刀跡〉というのもあって、信玄公もえらい斬りつけられたことになっています。
それだけされて肩に浅手を負っただけ、という信玄公の強運になぞらえて八幡神社では〈強運守り〉というお守りも売っていて、これがまた真っ赤な炎が燃え立つようなデザインで、まさに”強運”って感じなんですよね。

川中島古戦場では上記のように武運つたなく幾千もの命が露と消えました。本来は忌避される場所かもしれません。ですが、現在ではそのような生々しさはすでになく、どこか絵巻物のなかの風景のようにすら感じられます。
八幡原史跡公園と名を変えたこの一帯は芝生が丁寧に管理され、博物館やプラネタリウムのある市民憩いの場となっていますから、そのせいでしょうね。
この日も生き生きとした夏草が陽光に煌いて、子供たちの笑い声があちらこちらから聞こえていました。

三本目の回向柱(3)シンボルタワー

それにしても回向柱ってなんなんでしょう?
090716本堂前
現在のように善光寺本堂前へ回向柱が立てられるようになったのは、1701年(元禄14年)、焼失していた本堂を再建するよう、徳川幕府から普請奉行を命じられた松代藩真田家が、それ以後、奉納するようになってからといわれています(藩の資料は天災によって失われたため口伝です)。

ちなみに焼失以前の本堂は世尊院釈迦堂の対面(現在、延命地蔵尊が据えられている場所)に向かい合った形で東向きに建てられていました。

回向柱についてのはっきりとした資料は善光寺にも真田家にも、他の第三者的なそれもないのですが、世尊院の職員さんの話では、「本堂と釈迦堂、それぞれの前に向かい合って回向柱が立っていた」そうです。
この職員さん、「釈迦堂が本堂の真似をしたんじゃない!」ともおっしゃってました。同時期に同じように立てられ始めた、ということなんでしょう。
090716釈迦堂

善光寺は鎌倉幕府に庇護され、また鎌倉時代の大衆仏教の流行によって、それ以後、戦国時代まではかなり栄えたそうです。
1500年代半ばには戦乱の影響もあって伽藍が荒廃し、本尊も有力武将たちの手を転々とするのですが、豊臣秀吉が本尊を信濃へ返した後は豊臣家や徳川幕府から手厚く遇され、現代に至ります(明治維新での危機はありましたが)。

回向柱といえば御開帳ですが、もともと7年に一度ではなく、改築や造営が行われる際の客寄せとして、不定期に行われていたようです。
江戸時代になるとけっこう細かいことまで書かれた資料が多く残っています。
江戸、大坂、京都での出開帳も行われました。
(7年に一度が定着したのは明治時代に入ってからです。)

その江戸時代の御開帳資料で特に私が興味を引かれたのは、収入の内訳まで記されてあったことです(賽銭と同じくらいの額を御印紋頂戴が得ていたのは意外でした)。
「現代の寺院は金勘定ばかりに精を出して…」などと批判されがちですが、むかしのほうが収支にはもっとシビアだったかもしれません。
お金や力がないとお寺などは、あっという間に荒廃することは戦国時代に痛いくらいに思い知らされたでしょうからね…。
江戸時代、善光寺参りは伊勢参りに次ぐ人気で、御開帳にも日本各地から多くの人が詰め掛けています。
ところがです。それでも善光寺の運営は楽ではなかったそうなんです。
広大な伽藍に、院坊の数もとってもたくさんありますから、維持費も莫大だったんでしょう。

私がここで何をいいたいのかと申しますと、大阪万博や愛知万博を思い出して欲しいんです。イベントにはシンボルが必要なんです。太陽の塔、大地の塔がそれに当たりますよね。
「御開帳やっています、どしどしいらしてくださーい!回向柱が目印でーっす!」
回向柱ってもともとこんな感じで始まったんじゃないでしょうか?
時期的には1598年(慶長3年)、秀吉が本尊を信州へ返した以降、もしくは1622年(元和8年)、真田家の松代入封以降だと考えています。戦乱の世も治まり、善光寺詣でをする庶民も出始めるころだと思うからです。

当初はそんなに立派な回向柱じゃなかったかもしれません。
裏山の杉かなにかを善光寺の坊さんたちが伐って立てる、といった手作り感あふれるものだったでしょう。それを前立本尊と善の綱で結ぶというアイデアを出した人はひょっとすると善光寺中興の祖といって過言でないかもしれません。
回向柱は善光寺のお坊さんにも参詣者にも好評だったのでしょう。
1701年の本堂再建を境に「もっと大々的なものにしよう!」と真田家に協力を仰いで現代に残る形(奉納行列をやったり、建立式をやったり)になった、と私は想像しています。

090716往生寺
そして、そんなシンボルタワーとしての回向柱の効果を見て、往生寺(三本目の回向柱)はそれを真似たのではないか、と私は考えているのですが、真似をしているお寺が他にないのが本当に謎です…。(往生寺も荒廃したり、天災によって本堂が壊れたりしています。)

今回は色々と想像するだけで、うまくまとまりませんでしたが、今後の研究課題といたします!

三本目の回向柱(2)往生寺あれこれ

まず、前の記事でわかりにくかったので、この浄土宗の寺院、往生寺の正式名称を記しておきたいと思います。
山号が〈安楽山〉、院号が〈菩提心院〉、堂号が〈刈萱堂〉、あわせて〈安楽山菩提心院刈萱堂往生寺〉といいます(堂号は普通のお寺ではあまりないそうです)。
090713往生寺回向柱
というわけで三本目の回向柱です(前の記事で釈迦堂のことを回向院と書きましたが、世尊院の間違いです。お詫びして訂正します)。
善光寺本堂前のそれよりふたまわりほど小さいです。
御開帳の期間は善光寺と同じように善の綱みたいな紐でご本尊(阿弥陀如来)と回向柱が結ばれていたそうです。通常は御開帳期間満了をもって往生寺の回向柱も役目を終えるのですが、今回は法然上人の800年大遠忌(没後800年)ということで、なんと平成23年まで立っているそうです!善光寺のそれを見逃した人は必見ですね。
善光寺のそれもそうなのですが、回向柱を立てる習慣はいつから、そしてなぜ始まったのかはよくわかっていません。おそらく善光寺が先で、それを真似たのではないかと思います(回向柱については次回に書くつもりです)。

本堂の阿弥陀如来さまは剛直なお顔立ちで、この(以前は人里はなれていたであろう)質素な山寺に調和していらっしゃいました。
本堂ではお数珠やお守りの他に『絵解き刈萱親子伝』なる御詠歌本や絵本を販売していて、事前に連絡をしておくと住職による『絵解き刈萱親子伝』の御詠歌の生歌が聴けるそうです。

090713親子地蔵
本堂向かって左手の、この親子地蔵は刈萱と石童丸を暗示しているんでしょうね。
蓮の葉の傘が可愛いです。

090713往生寺梵鐘
この往生寺の梵鐘は別名〈夕焼の鐘〉といいます。童謡『夕焼小焼』からとられているんです。
作曲者の草川信氏は長野市出身で、この鐘を聞きながら作曲したとも、この梵鐘からの風景を思い出しながら作曲したともいわれているそうです。

090713豊臣稲荷
〈豊国稲荷大明神〉の文字を見たとき、私は奇縁を感じました。京都にいたときに豊国神社を訪れていますからね。
ちなみに豊国神社は豊臣秀吉が没した後、後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られたことに始まるのですが、豊臣家の滅亡後は当然のように徳川政権によって廃棄されます。後に復活させてくれたのは明治天皇です。
そういえば往生寺の本堂のなかには五七桐花紋の幕がかけてありました。五七桐花紋は豊臣家の家紋であり、明治以降は日本国の紋章にもなっているのでどちらかはわかりませんが、明治時代の廃仏毀釈の折、往生寺は、豊国神社の末社という形をとっていたのかもしれません。

090713波切不動
お堂の中が暗くて見えませんでしたが、〈波切不動〉は唐での修行を終えた空海が帰国する際、大嵐にみまわれたところ、不動明王が現れて波を平らかにしたという伝説にちなんだ呼び名です。
刈萱は最初、高野山で修行したので真言宗の徒であったと思われますが、信州に移り住んだ後、地蔵菩薩像を彫ったりしているので途中で浄土宗に改宗したのでしょう(浄土宗や浄土真宗ではその教義から、地蔵菩薩を重く見ています)。
波切不動は刈萱と真言宗の繋がりが完全に絶たれていなかったことを示しているのかもしれません。

回向柱、波切不動尊、豊国稲荷…。
なんといいますか、往生寺さんの創建から現代に至るまでの波乱の歴史を感じます…。

090713刈萱上人の墓
刈萱上人のお墓です(西光寺にも刈萱上人の墓とされる五層石塔があります)。
西を向いていらっしゃいます。西方浄土を見ているのか、故郷、筑前を見ているのか…。
往生寺からは長野市内(善光寺平)が一望できます。にもかかわらず、西を向いてらっしゃるのですからね。
090713展望
今回は梅雨の晴れ間でしたが、盛夏の頃、紅葉の頃なんかの眺めも美しそうですね。また是非やってきたいものです。今度はちゃんと上の駐車場まで車でこよっと…。
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