志村けんになろう
正直に告白すると、私はここ何年も志村けんさんの番組をまともに観ていません。
少し前にNHKでのコント番組をチラリと拝見したくらいでしょうか。
子供の頃もドリフの番組や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』は大いに楽しませてもらいましたが、『だいじょうぶだぁ』や『バカ殿様』はあまり好みではありませんでした。
私にとっての志村けんはドリフやカトちゃんがいればこそだったわけです。
ただ、だからといって一個のコメディアン・志村けんが嫌いというわけではありません。
むしろすごく好きだったようです。
昨日3月30日に報じられた志村けんさんの訃報(2020年3月29日没)に触れ、自分でも思いがけないほどの喪失感を覚えています。
志村さんがやっていた何気ない話を作り込んだコントや、ナンセンスの極みともいえるような番組は、昭和の名残りなのかもしれませんが、それが存在し続けることは、幼き日の幸せな記憶を思い出すだけではなく、ゆるく平和な日本が続いている安心感のようなものを与えてくれていたようです。
そうして昭和から平成を生き抜いてくれた志村けんの笑いですが、それは決して平坦な道のりではなかったはずです。
コントにはコストの問題、『バカ殿』などのナンセンスバラエティには「教育に悪い!」とか「女性蔑視だ!」とかいう批判がいつもついて回っていました。
もし、それで志村さんが自分の笑いを捨ててしまっていたら、どうなっていたでしょう?
日本のエンターテイメントはひどく窮屈で幅のないものになっていたはずです。
”志村けん”の名前が番組欄にあることで、我々は日本社会の寛容さを再確認できたわけですし、そうして志村さんに甘えてきたわけです。
また、”志村けん”は、多くの世代が一度は通る笑いであり、そこで好きになってそのままずっとファンだったり、飽きて離れてまた戻ってきたり、離れたままだったり、または最初から反発したり。
いずれにせよ、日本人の笑いのひとつの基軸になっていたことは間違いありません。
そこに志村けんの偉大さがあります。
我々はいま、本当に大きなものを失いました。
「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです。」という加藤茶さんのコメントは、日本人の総意だと思います。
志村さんは3月17日に倦怠感を訴えて自宅療養に入り、19日に発熱と呼吸困難という症状があらわれ、20日に緊急入院したものの、21日には意識が混濁し、人工呼吸器を使用する状況になったそうです。
そして亡くなったのが29日。
ヘビースモーカーでお酒も大好きだった志村さんは、2016年に肺炎を患い、今年も胃のポリープを切除する手術を受けたりと、健康なひとに比べれば武漢ウイルスに抵抗できる身体ではなかったと思われますが、それにしても病状が進むのが速すぎます。
3月上旬は普通に仕事をなさっていたといいますから、本当にあっという間です。
長きに渡り我々に戯けた笑いを届けてくれた志村さんですが、その最期は武漢ウイルスによって緊張感に包まれたものになってしまいました。
日本社会の危機意識も一気に高まり、喜劇王の死には似つかわしくない雰囲気かもしれません。
しかし、馬鹿馬鹿しい笑いだからこそ、その背後には厳しい修練や研ぎ澄まされた計算があるものですし、志村けんの笑いというのはまさにそれだったように思います。
平和でゆるやかな日本を取り戻すために、我々も志村けんになりましょう。


追記
今日の夜のニュースで、志村さんのお兄さんが東村山市の実家に志村さんのご遺骨を運ばれる様子が流れていました。
ご遺体は感染の危険性があるので、お通夜を経ることなく、すぐに荼毘にふされたそうですが、親族は対面することも叶わず、しかも火葬にも立ち会えなかったそうですから、あまりにも寂しすぎます。
お兄さんに抱かれるほどに小さくなってしまった志村さんを見て、私も言葉がありませんでした。
武漢ウイルスが憎い、本当に憎い。
少し前にNHKでのコント番組をチラリと拝見したくらいでしょうか。
子供の頃もドリフの番組や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』は大いに楽しませてもらいましたが、『だいじょうぶだぁ』や『バカ殿様』はあまり好みではありませんでした。
私にとっての志村けんはドリフやカトちゃんがいればこそだったわけです。
ただ、だからといって一個のコメディアン・志村けんが嫌いというわけではありません。
むしろすごく好きだったようです。
昨日3月30日に報じられた志村けんさんの訃報(2020年3月29日没)に触れ、自分でも思いがけないほどの喪失感を覚えています。
志村さんがやっていた何気ない話を作り込んだコントや、ナンセンスの極みともいえるような番組は、昭和の名残りなのかもしれませんが、それが存在し続けることは、幼き日の幸せな記憶を思い出すだけではなく、ゆるく平和な日本が続いている安心感のようなものを与えてくれていたようです。
そうして昭和から平成を生き抜いてくれた志村けんの笑いですが、それは決して平坦な道のりではなかったはずです。
コントにはコストの問題、『バカ殿』などのナンセンスバラエティには「教育に悪い!」とか「女性蔑視だ!」とかいう批判がいつもついて回っていました。
もし、それで志村さんが自分の笑いを捨ててしまっていたら、どうなっていたでしょう?
日本のエンターテイメントはひどく窮屈で幅のないものになっていたはずです。
”志村けん”の名前が番組欄にあることで、我々は日本社会の寛容さを再確認できたわけですし、そうして志村さんに甘えてきたわけです。
また、”志村けん”は、多くの世代が一度は通る笑いであり、そこで好きになってそのままずっとファンだったり、飽きて離れてまた戻ってきたり、離れたままだったり、または最初から反発したり。
いずれにせよ、日本人の笑いのひとつの基軸になっていたことは間違いありません。
そこに志村けんの偉大さがあります。
我々はいま、本当に大きなものを失いました。
「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです。」という加藤茶さんのコメントは、日本人の総意だと思います。
志村さんは3月17日に倦怠感を訴えて自宅療養に入り、19日に発熱と呼吸困難という症状があらわれ、20日に緊急入院したものの、21日には意識が混濁し、人工呼吸器を使用する状況になったそうです。
そして亡くなったのが29日。
ヘビースモーカーでお酒も大好きだった志村さんは、2016年に肺炎を患い、今年も胃のポリープを切除する手術を受けたりと、健康なひとに比べれば武漢ウイルスに抵抗できる身体ではなかったと思われますが、それにしても病状が進むのが速すぎます。
3月上旬は普通に仕事をなさっていたといいますから、本当にあっという間です。
長きに渡り我々に戯けた笑いを届けてくれた志村さんですが、その最期は武漢ウイルスによって緊張感に包まれたものになってしまいました。
日本社会の危機意識も一気に高まり、喜劇王の死には似つかわしくない雰囲気かもしれません。
しかし、馬鹿馬鹿しい笑いだからこそ、その背後には厳しい修練や研ぎ澄まされた計算があるものですし、志村けんの笑いというのはまさにそれだったように思います。
平和でゆるやかな日本を取り戻すために、我々も志村けんになりましょう。


追記
今日の夜のニュースで、志村さんのお兄さんが東村山市の実家に志村さんのご遺骨を運ばれる様子が流れていました。
ご遺体は感染の危険性があるので、お通夜を経ることなく、すぐに荼毘にふされたそうですが、親族は対面することも叶わず、しかも火葬にも立ち会えなかったそうですから、あまりにも寂しすぎます。
お兄さんに抱かれるほどに小さくなってしまった志村さんを見て、私も言葉がありませんでした。
武漢ウイルスが憎い、本当に憎い。
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