もったいない精神と大食い修行
武漢ウイルス禍の巣籠もり生活で昨年から動画配信サービスが契約を伸ばしているなか、同じ理由で上昇するはずのテレビ視聴率ですが、この5月21日(2021年)にNHK放送文化研究所が発表したところによると、国民全体の視聴割合が2015年の85%→2020年の79%に減少したというのですから、テレビというメディアは本当に魅力を失っているようです。
私自身や私の家族を見ていても、テレビを観ている時間は確実に少なくなっていると思います。
注目のスポーツ中継は意識してチャンネルを合わせますけど、普通の日はニュースをざっとチェックして、バラエティ番組をちらっと観るくらいでしょうか。
ちなみにバラエティ番組は食べ物系が多いです(相方が好きなので)。気がつくとギャル曽根さんばかりが映っているような気がします。
そういえば最近、そのギャル曽根ちゃん(ちゃん付けの方が自然なので)の出演番組の大食いコーナーの食べ残しが「フードロスだ!」と批判されているという話を耳にしました。
もちろんギャル曽根ちゃんは残しませんが、大食いを自称するタレントさんのなかには拍子抜けするほど食べられないひとがいて、私もなんだかなあ…って思うときもあります。
2キロ~2キロ半くらい食べてくれなきゃ大食いって感じがしませんし、それくらい食べてくれれば私なんかはフードロスとかもったいないとかあまり思いませんしね。
ちなみに、”大食い”に対する日本人の価値観は江戸の昔からけっこう両極端なんです。
それを諫めるような話もあれば、称えるような話もありますからね。
その背景にあるのは、無駄に大食いするのはもったいないというのと、大食いするほど食べ物があるのは豊かさの証だという、相反した2つの考え方です。
私はそれは両方真実と思いますし、その2つの価値観を持ちながら、ときと場合によって使い分けながら日本人はやってきたのだと思います。
また、日本には1年1度の大食いの風習がある地域もいくつかありますが、祈り感謝や祖先崇拝を理由にしているとはいえ、その様子を眺めると、エンターテイメントの要素があるのは明らかで、大食いをみんなで楽しむというのは昔からあるわけです。
私はそういう特別な日よりも、普段の食事のなかでのもったいないを意識すべきだと思っています。
その模範ともいえるのは、やはり禅寺の食事です。
よく知られているところでいうと、ご飯を食べたあとの御茶碗にお湯を注ぎ、お茶碗についたお米がふやけたところで、一切れ残していた沢庵を箸でつまんでヘラのようにそれをこそぐというのがあります。
懐石料理の作法でも本来はそうするらしく、そのため香の物には必ず大根の漬物を入れるといいます。
そして、その残さない精神でいうと、日本料理では当たり前になった”銀餡”ももとはお寺の食事から始まったと考えられています。
お出汁や煮汁を残すのがもったいないので、葛や片栗粉でとろみをつけたというわけです。
料理屋さんのの懐石料理のようにたっぷりかけるのではなく、タレのようにして使うのが本来なのでしょう。
そういう日々の食事に目を向けるのではなく、行事やテレビ番組の大食いばかりを目の敵にするのはナンセンスだと私は思います。
そもそもフードロスというのは日々の積み重ねです。
適切な量の食材を買い、適切な量を食べる。それを多くのひとが自然に繰り返せばいいわけです。
それを自分が出来ているか見直すことから始めるべきです。
ちなみに、禅寺なんかでは大食いを否定していないんです。
もったいない精神から余ったものも残さず食べることが奨励されるため、料理を作り過ぎてしまったときなんかは「大食いも修行のうち」といって頑張って食べるわけです。
…いま、閃いたんですけど、ギャル曽根ちゃんが全国各地のお寺さんを廻って余ったものを食べまくるという企画はどうでしょう?
これなら誰も文句をいいませんよね!


私自身や私の家族を見ていても、テレビを観ている時間は確実に少なくなっていると思います。
注目のスポーツ中継は意識してチャンネルを合わせますけど、普通の日はニュースをざっとチェックして、バラエティ番組をちらっと観るくらいでしょうか。
ちなみにバラエティ番組は食べ物系が多いです(相方が好きなので)。気がつくとギャル曽根さんばかりが映っているような気がします。
そういえば最近、そのギャル曽根ちゃん(ちゃん付けの方が自然なので)の出演番組の大食いコーナーの食べ残しが「フードロスだ!」と批判されているという話を耳にしました。
もちろんギャル曽根ちゃんは残しませんが、大食いを自称するタレントさんのなかには拍子抜けするほど食べられないひとがいて、私もなんだかなあ…って思うときもあります。
2キロ~2キロ半くらい食べてくれなきゃ大食いって感じがしませんし、それくらい食べてくれれば私なんかはフードロスとかもったいないとかあまり思いませんしね。
ちなみに、”大食い”に対する日本人の価値観は江戸の昔からけっこう両極端なんです。
それを諫めるような話もあれば、称えるような話もありますからね。
その背景にあるのは、無駄に大食いするのはもったいないというのと、大食いするほど食べ物があるのは豊かさの証だという、相反した2つの考え方です。
私はそれは両方真実と思いますし、その2つの価値観を持ちながら、ときと場合によって使い分けながら日本人はやってきたのだと思います。
また、日本には1年1度の大食いの風習がある地域もいくつかありますが、祈り感謝や祖先崇拝を理由にしているとはいえ、その様子を眺めると、エンターテイメントの要素があるのは明らかで、大食いをみんなで楽しむというのは昔からあるわけです。
私はそういう特別な日よりも、普段の食事のなかでのもったいないを意識すべきだと思っています。
その模範ともいえるのは、やはり禅寺の食事です。
よく知られているところでいうと、ご飯を食べたあとの御茶碗にお湯を注ぎ、お茶碗についたお米がふやけたところで、一切れ残していた沢庵を箸でつまんでヘラのようにそれをこそぐというのがあります。
懐石料理の作法でも本来はそうするらしく、そのため香の物には必ず大根の漬物を入れるといいます。
そして、その残さない精神でいうと、日本料理では当たり前になった”銀餡”ももとはお寺の食事から始まったと考えられています。
お出汁や煮汁を残すのがもったいないので、葛や片栗粉でとろみをつけたというわけです。
料理屋さんのの懐石料理のようにたっぷりかけるのではなく、タレのようにして使うのが本来なのでしょう。
そういう日々の食事に目を向けるのではなく、行事やテレビ番組の大食いばかりを目の敵にするのはナンセンスだと私は思います。
そもそもフードロスというのは日々の積み重ねです。
適切な量の食材を買い、適切な量を食べる。それを多くのひとが自然に繰り返せばいいわけです。
それを自分が出来ているか見直すことから始めるべきです。
ちなみに、禅寺なんかでは大食いを否定していないんです。
もったいない精神から余ったものも残さず食べることが奨励されるため、料理を作り過ぎてしまったときなんかは「大食いも修行のうち」といって頑張って食べるわけです。
…いま、閃いたんですけど、ギャル曽根ちゃんが全国各地のお寺さんを廻って余ったものを食べまくるという企画はどうでしょう?
これなら誰も文句をいいませんよね!


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