歴史は流れるもの

「教科書から聖徳太子や鎖国が消える」

この2月(2017年)に文部科学省が、”聖徳太子→厩戸王””鎖国→江戸幕府の対外政策”とするこれを新学習指導要領”案”を発表したとき、メディアに出てくる有識者だけではなく、ネットを含めた世論でも多くの反発を招きましたけど、私も引きちぎれそうなほど首を捻ったものです。

文科省は新案の理由について、聖徳太子という呼称は死後の諡であること、鎖国といっても外国と断交していたわけではなく、オランダや中国などと交流があったことを挙げていました。
対してこれに反対するひとびとは、歴代の天皇の名も死後の諡であること、幕末の開国という言葉との整合性が取れないことを指摘していましたけど、これはまさに正論といえるでしょう。

文科省の新案は、歴史を”点”で教え、縦軸の”流れ”を無視するという、日本の歴史教育の悪いところがそっくりそのまま踏襲された判断です。
〈聖徳太子〉で大切なのは、この人物の登場前とその後で大和朝廷の政治体制がどう変わったのか、そしてこの人物が伝説化して〈太子信仰〉が生まれた後、浄土思想と混ざり合い、それがより強くなったことでしょう。
〈鎖国〉もまた、なぜ江戸幕府が外国との交流を制限したのかが大事なんです。戦国時代と江戸時代の比較といってもいいでしょうし、世界史との”横軸”関係で見ることもまた学問だと思います。

そうして、そのような批判の高まりから、文科省が新案を修正し、聖徳太子も鎖国も教科書に残ることが、この3月20日にわかりました。なんとも馬鹿馬鹿しい騒ぎでしたね。
しかし、真に批判されるべきは文科省ではなく、文科省がアドバイスを受ける〈専門家会議〉だと私は思います。
この会議のメンバーのなかに、歴史を”点”で教えたがっている人間がいるわけです。
”点”で教えることは歴史をわかりにくくするだけではなく、歴史上の人物の業績が矮小化される可能性がありますし、歴史の人物の思想や行動を現代の視点から判定することにもなりかねません。

歴史というのは、判定するものではなく、そこから教訓を得るものです。
現代の我々もいずれは歴史の流れのひとつになるのですからね。
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